昭和47年7月23日 朝の御理解
                             中村良一
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」



今日は、どんなに私共が、おかげは、どうでも頂かなければならないと思う。ですから、どんなにおかげを頂いても、おかげを取りはずすことのない様な、天で頭を打つことのないようなおかげを頂く事のための信心を、聞いていただこうと思います。
身代が出来たり、例えば、人から先生と言われる様になると、頭を下げることを忘れる。と言うのは、まぁ、頭を、ペコペコ、下げときゃ良いと言うことじゃないと思うですね。心の、ね。心が、何時も、地に、ひれ伏しておるというか、ね。御神恩かたじけなしと言う、心の状態があるという事。ま、これは、私のことを申しますならば、私は、恐らく、天で頭を打つ様な事やら、慢心をして、おかげを取り外す様な事はないと思う。私の生き方は。私の生き方というものを、いよいよ、身に付け、いよいよ、本当なものにしていこうという、精進する心がある限り、私は、おかげを取り外す様な事はないと思います。と、自分で、今日は思わせていただいておる。と言うのは、私は、何時もその、おかげを受けるという事でも、何時も、この、今中という気持ちがあるという事です。ね。例えば、椛目から、合楽に参りまして、こんな立派なお広前が建立され、まぁだ、ようやく五年経ったばかりの所で、またも、今度、五千万もかけた西脇殿が出来よると。まぁ、大したこっじゃあるというふうに、一つも、私は、思わないことです。まぁだ、今中、こらもう、どれだけおかげを受けても、恐らく、この心があるだろうと思うのです。まぁだまぁだ、神様が、下さろうとするおかげは、こげなもんじゃないと言う風に、私は、思うておる事です。ですから、おかげを受けたと言う、その、まだ、おかげが頂き足らんというのじゃないですよ。神様が下さろうとする、その、おかげというものを、まぁだ、こちらの信心が至らないから、このくらいしか頂けていないのだと言う頂き方なんです。ね。ですから、頂き足らんと言うのでなくて、頂ききらんでおるのだ、まぁだ。本当いうたら、神様は、このくらいなこっじゃないと、神様の限りないお働きと、お力と、ね。その、神様の下さろうとする、限りないおかげを、こちらの信心が至らんから、まぁだ、このくらいなことだと言う様なです。今中という。教祖様は、そこんところを、今中という言葉で仰っておられる。まぁだ、今が半分、今が真ん中という訳なんです。もう、これだけ、おかげ頂いたけん、やれやれ安心というところに、私は、慢心が出るのじゃないかと思うのですね。だから、慢心の出ようがない、という事が、第一ですね、私は。同時に、私は、自分でも、気が付かない間にです、ね。天地の心を心として、信心を進めてきたという事です。ね。それが、例えば、ここで言われる、成り行きを大事にしていくという事。成り行きの中にです、ね。言うならば、例えば、日々のおかげを受けておるという事でも、ね。言うならば、引いたり足したりしながらです、ね。おかげを受けると言うても、はぁ、自分の信心によっておかげを受けたと。これは、頂き過ぎよらせんじゃろうかと思うたら、その答えというものが、果たして、正確なおかげであるかどうかという事を、何時も、確かめながら、信心を進めておるということ。ね。足してみたら、足して答えが出たら、一遍、引いてみる。ね。引いたら、足してみる。あっているか、あっていないかという事を、ね。掛けたら割ってみる、割ったら掛けてみると言うように、その、正確な答えが出ておるかどうかという事を、確かめながら、進めていくという事が、私は、自然、成り行きを大事にしていくと言う事だという風に思うのです。ね。成り行きそのものを大切にしていく。それを、最近では、ね。恩事柄として受けて行こうと。神様の御働きとして受けて行こうと、こういう事。
同時に、私の信心の内容の中にです。あれは、偉いお坊さんの歌だったと思うのですけれども。「座禅せば、四条五条の橋の上、行き来の人を宮木と見ていく」と言う歌がありますね。座禅をするならば、京都の、いわゆる、繁華なところですね。四条五条の橋の上でせにゃいかん。沢山な人が至り来たりしておる。それを、深山ですね、宮参りという、深山の立ち木と思うて、という訳なんです、ね。普通でいうなら、座禅でも組むという事は、そういう、静かな環境とか、静かなところで座禅を組むと。それは、確かに、やり良いでしょう、ね。けれども、そんなら、私共が、その、人間としての幸せを得る為に、そう何時も、深山にばっかりこもっておるわけには参りませんですね。そらそれを専門にする、お坊さんか何かなら、いざ知らずですけど、ね。一般人であってみれば、いわゆる、わずらわしい問題の、もう、真っ只中に、何時もあるのです。ね。金光教の信心は、ここら辺が有難いですね。火や水の行じゃない、家業の行と仰る。いわゆる、家業の、わずらわしい、煩雑な中にあってです。信心を頂いて行けと、こう言うのである。ですから、その、むしろ、煩雑な、わずらわしい、その問題、そのものをです。有難いと受けていくと言う。その中から、信心をいただいて行こうという様な、心持ちが、私の心の中に、何時も、あるという事が、おかげを落とさんですむ心だなと思うです。ね。ですからもう、問題が問題じゃなくなってくる。
夕べの、御祈念の後に、皆さんに、聞いて頂いたんですけども、ね。例えば、私には、困った困ったという事がないという事なんです。一人が困ると、もう、次の人が困る。ね。「蚊も困る、蚊もまた困る団扇かな」「嫁困る、姑も困る団扇かな」という事にもなる訳です。ね。もう、嫁が、苦労しておる時にはです。婆さんも、必ず難儀をしようとしている。同じ事ですよ。親が難儀をしておる時には、子供も難儀しておる。子供が、深刻な難儀をしておる時に、親が楽である筈がない。ね。ですから、ね。自分が、困った困ったと思っておるから、その、困った困ったが、家内に伝わったり、子供に伝わって行ったり、親に伝わって行ったりする訳なんです。ね。困るという事の、あろう筈がないと言うのが、合楽の信心ですね。困るどころか、それを、御事柄として受けておる。普通から言うたら、そら、難儀な事であろう、困った事であろうと。いわゆる、困らんで済む信心、ね。だから、困らせようと、例えば、する人があってもです。こちらが、一つも困らんから、もう、馬鹿らしゅうなってくる。いわゆる、ね。困らそうとしたものが、困ってしまって、逃げ出して行くという事になる。あれを一つ、ね。いっちょ、困らかしてやろうと。私は、ずいぶん、そういう目にあってきたように思います。ね。そういう、何て言うですかね。まぁ、根性の良くない人がありますよね。一つ、困らせちやろうち、ところが、ひとっつも困っていないどころか、それこそ、するすると、有難いほうへ、有難いほうへと、何時も自分が出ておるのを見てから、向こうは、困らせようと思うたことが、かえって、こちらにおかげになっとる。ね。十三日会なんか、そうですよね、うちの。かえって、そのことが、おかげの元に何時もなっている。困らせようとしたものは逃げ出している。ね。だから、困るという境地を脱却するという事。そこから、抜け出ると言うこと。
二三日前の御理解で言うなら、次元の違った世界におるから、それが、困ったことに見えないのです。ね。私は、そういう信心を、何時も、身に付けていこうと、一生懸命、精進努力しておるということ。だから、私は、慢心を起こすような事はないと思う。今日、私は、ね、慢心を起こして、おかげを落とさんで済むような、いくつもの、私の信心から、例を取って、お話しておるわけですね。
一番、間違いのない事はね、成り行きを大事にさせて頂くという事が、そのまま、天地の心を、心として、神様の心を心としての頂き方であるという事を、最近、私が、痛感しておる事です。いうならば、真の信心とは、これだという事です。どんな、ほんなら、突発的な問題が起こっても、または、こういう、怒るような事があっても、ね。その時点で、そのことを大事にしていく。いわゆる、成り行きを大事にしていく、尊んでいくと言うわけです。その生き方こそがです、私は、真の信心だと思う。お祭りしてあるところの神様だけを、恭しゅう、拝むと言うだけではなくて、その神様の、御働きそのものを、尊んでいただこうとする生き方、そういう姿勢が、私には、段々、もう、絶対のもののように出来てきておるという事です。だから、神の心を、心としての信心が出来てきておるという事です。
それは、もう少し言うならば、天地日月の心というものが、本当に分かってきたという事です。天は、与えて与えてやまない、ね。言うならば、麗しの心。ね。大地は、それを、黙った、受けて受けて、受け抜いていく。そして自分の、豊かになる事のために、受け抜いておるというのが大地の姿。ね。日月の心と言うものは、ね。間違いのない、実意丁寧な信心。そういう生き方。そういう生き方がです。私の信心に、もう、それが、私の信心の信条という事になってきておるという事。ね。ですからもう、例えば、今、申しますように、色んな、私が、おかげを落とさんで済む。天で頭を打つようなことの無い、おかげが受けられるだろうと。しかも、それが、もっともっと、垢抜けしていくことだろう。もっともっと、自分の、血に肉になっていくことであろう。慢心が出ようにも、出ようがない。それは、私が、何時も、どのようにおかげを受けても、今中であると言う気持ちでおるからだという事。ね。
皆さん、どうでしょうか。私が、こう、今、聞いていただいてから、ほんなこと、そうだなぁと、皆さん、思うて頂かなければいけんのですよ。私は、決して、うだごとを言うてるんじゃないです。今、私が、皆さんに聞いて頂いた事だけはですね。本当に、そういう気持ちで、おかげを頂いておるです。ね。
私は、思うのですけれども、人間の、言うなら、命の中にですね、心の奥の奥にです、ね。本当に、幸せになりたいと言うものを、何時も、思い、叫び続けておると思うですよね、人間は。そしてですね、自分の心の奥の奥のものがです、それを知ってるです。金じゃない、物じゃない、地位名誉じゃないという事を。人間の幸せと言うのは、やはり、心だと言う事をですね、もう、命の底にね、そういうものを、人間は称えておると、持っておるという事です。ね。けれども、それは、とてもとても、至難な事だという風に思うておるです。どんな場合であっても、ニコニコしておれるような心があったら、さぞ良かろうという心がね、何時も、自分の心の底にはあるという事です。けれども、人間は、そんなわけにはいかんと、自分で決めておるのです。人間の心の、底の底にはです、いうならば、ね。人間が、本当に、和賀心になれたら、御道の信心で言うなら、和らぎ喜ぶ心というものにです、人間がなれるという事が、一番の幸せだ。ただ、なれる道を知らないだけのことだ。ね。それは、いいや、もう、この世は、金々、という人でもです。いいや、もう、健康健康という人でもです、ね。それだけでは、人間の幸せではないという事を、暗に承知してるです、自分の心の底の心が。そして、どのような場合であっても喜べれる心、どのような場合であっても、心が乱れない和の心。そういう心の状態というものが、人間の幸せであるという事は、知っておるけれども、ほんなら、人間は、そういうわけにはいかんと、こう、自分で多寡を括っている。そこを、教祖は、ご自身が体験をなされ、ね、そして、その和賀心にならせて頂けれる、いうなら、道を、見やすう、気やすう、誰でも、その気になれば、おかげの頂けれる教えを残しておってくださったんだと思うです。ね。私の心の中に、皆さんの場合、誰であっても、そうですけれども、私は、そういう人間の心の底にある、ね。和賀心、和らぎ喜ぶ心になれたら、さぞ、良かろうけれども、なれん。なれると思うておる、沢山な人のなかに、私は、それがです、ね。いうならば、ある一つのきっかけから、本当の信心を目指させていただくようになったらです。和賀心というものは、自分の心の中から、それを求める心と、それを、教え導いていただく教えによるならばです。誰でも、和賀心になれるんだという事を、私が、いうならば、手本を、ここでは、示しておるようなものです。もう、この心も、ある限りです、私は、慢心を起こすことはなかろうと思う。
私は、何時も、有難い、もう、不思議なくらいに有難いなぁと思うことはですね。私が、思うたことが、そのまま、はぁ、神様が思いなさったんじゃなぁと思うことがある、ちょいちょいあります。私が口にすることが、あーら、私じゃないなぁ、こら、神様のお声だなと思う事が、もう、ちょいちょいあります。日のうちに、何回か気付くことがあります。そして、私が、しておる事が、私が行うておる事が、あらこりゃ、私じゃないばい、神様が、させござるとじゃなと思う事が、何回あるか分かりません。本当にそうです。それは、どういう事を意味するのでしょうか。
生神金光大神とは、そういう事の、四六時中ではなかろうかと、こう思いますね。私共は、いわゆる、それは、時々なんですけれども、ね。はぁ、神様が思いござると、神様が行いござると、神様が言いござるとだなと、思うような有難い、不思議な事に出会うことがあります。もう、すでに、神様と、一つになっていきよる、こら姿です。ですからもう、頭を打つ暇はないでしょう。頭を持ち上げる、いわば、暇はないでしょう。ね。いつも、勿体ないで、心は何時も、大地にひれ伏しておるという事になるのでしょう。ね。
今日は、言うなら、私の信心の、全てという様なものを、僅かな時間に聞いていただいたような気がするんです。私が、実際におかげを受けておる事。ほんなら、私が、実際に行じておる事。そして、私が思うておる事、言いよること、ね。そういう様な事が、あの、何時も、天地に交流しておるというか、そういうものがです、ね。頂けておる限り、私は、おかげを受けるなぁと、こういう事。
昨夜も、遅う、田中さんが、床屋さんを連れてきて下さった。田中さんところの、借家に、今度、床屋さんが来られた。それで、あちらが、八時までで終わられるから、私が、九時になったら、下りる、下がりますから、なら、先生のお暇のときなら、九時からだと言うので、九時一寸過ぎに、わざわざ連れてきて頂いた。すぐそこに、ですからもう、しかもあの、毎日、浮羽郡の大石から通うてみえる床屋さんだそうですから、帰り道によっていただくことに、これから致しますと。それで、頭もつませていただこう、髭も当たらせて頂こう。そしたら、昨日は、ちょうど家内が御用しよりましたから、奥さんの顔も剃らせて頂こう、襟も当たらせて頂こう。ほらもう、一年ぶりじゃろう、顔剃っていただいたつはち言うて、家内が喜んでおりましたが、これからは、私だけではない、家内も、言うなら、剃って頂くことになった。ね。皆さんもご承知のように、久保山さんが、ずっと、私の頭を、散髪を受け持っておられたけれども、この頃、頭が、少し痛いと言うて、休んでおられます。ですからもう、それで途絶えてしまうという事がないでしょう。床屋さんが、わざわざ、私のために、合楽の田中さん方に、屋移りして来なさったと言う、私としては、感じがするんです。しかも、こげな上手な床屋さんから、初めて剃って貰うとち言うごと上手です。ひとっつも、困らないでしょうが、ね。それは、私がです、困る境地を脱却しているからです。ね。皆さんでも、そうです。ね。本当に、ね。信心しておるならば、信心しておる者と、いない者の違いというのがね。言うなら、ものの見方、考えかたがです、ね。言うなら、違ってこなければです、ね。人並みに、悔やむ時は悔やまんならん。腹立てる時は、腹立てんなんと言うことになるのです。ね。そういう事では、信心を頂いておる値打ちはない。例えば、よし、そういう事で、ほんなら、おかげを受けましてもです。そういう調子で、おかげを受けた人が、必ず、ね。出けんなりにおかげを頂くのですから、自分が一人でばし、おかげを頂いたごたる思い方をするから、天で頭を打つのであり、または、慢心が出て、おかげを取り外すという事に、結果になるのです。ね。
今日は、私、もう一遍、私が、いろいろ、私の信心の全てを、いわば、聞いていただいた。そして、それを、本当に、それが、完璧とまではいかんにしましてもです。それに取り組んでおるという事は、皆さんも、認めていただかなきゃならないと思うです。だから、皆さんも、やはり、それを、一つの手本として、信心を進めていくという事がです、ね。いわゆる、本当の信心が、身に付いて来ることであり、おのずと、頭は下がってくるのであり、しかもです、その思い方の中には、どのようなおかげを受けても、今中、まぁだ、今が、おかげの半分だと言う頂き方ですから、慢心の出よう筈がありません。ね。そういう信心を、いよいよ、身に付けて行きたいと思うですね。どうぞ。